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着物を着ること。

普段,着物を着ている人はほとんど見かけないが,成人の日(1月の第2月曜日)には成人式に出席する二十歳になった女性たちの多くが着物を着ている。私の若い頃(40年以上昔)も同じように成人式には女性は着物で参加していた。当時の方が着物を着ている率は高った気がする。“成人式に女性が着物で参加する“ことは昔から行われていたように思われるが,意外にも成人式は第二次大戦後から始まった行事であり,祝日に制定されたのも1949年からであり,伝統的な行事というよりは近年始まったものである。当然,成人式に着物を着る風習も近年のものである。ちょうど,高度成長期(1960~70年代)に着物ブームがあり,それに乗ったものと考えられる。

戦前,戦中,戦後を過ごしてきた先人達は,貨幣の価値が変動するのを身をもって体験しており,現物で価値のある物が日常の資産として意味を持っていた。例えば貴金属であったり,時計であったり(そういうものを物品貨幣と呼ぶ)。そういう価値のあるものの一つとして着物が当時あった。そのため祖父母や親達は孫や子供に着物を与えたのであろう(憧れの物が買える喜びもあったと思う)。着物は反物から出来る。反物は生糸から出来る。生糸は繭から出来る。その工程は簡単で無い事,多くの労働力がつぎ込まれている事が皆から認識されており,価値が認められていたのだろう。そして,合成繊維が普及するまでは生糸が最高級の繊維であった。一転,戦後,安く品質の良い合成繊維と,着易く手入れのしやすい洋服が普及したことによって,着物は物品貨幣としての価値が薄れてしまった。皆が“価値のある物”と認識なければ価値は無くってしまう。

私は蚕糸業に関わる者である。この数十年蚕糸業の衰退を眼のあたりにしてきた。養蚕農家の数で言えば,大学に入った頃(1980年)には15万軒あったものが,現在146軒(2023年)である。約40年で千分の一と激減している。一つや二つの技術開発や改善でどうこう出来る話ではない。何で農家が減るのかと言えば,繭が高く売れないから。何で繭が高く売れないかと言えば,生糸が売れないから。何で生糸が売れないからと言えば,反物(着物)が売れないから。蚕糸関係の会議でこの不況をどうすればよいかと議論されるが,その会議に出席している者が皆洋装である。自分が着ないで,売れないと言っても仕方無い気がする。着る着ない以前に着物自体を持っていない。自分は着物を着ないけど,皆着てくれないと困るという議論は成り立つのだろうか?? 私も普段は着物を着ていない。職場では蚕の飼育や桑畑の作業のため作業着を着ている。実験のための白衣よりも作業着の方が多い。

蚕糸業が盛んな頃は蚕糸教育にも力が注がれており,多くの農学部に養蚕学研究室があり,養蚕・製糸を主とした繊維学部が東京農工大学,信州大学,京都工芸繊維大学に置かれていた。養蚕学科があり,製糸学科があり,蚕糸業に関するあらゆる授業科目があった。ところが30年ほど前に研究室の名前から“蚕”の文字が消え,授業科目も無くなってしまっている。現在,研究室に”蚕“の文字があるのは私の居る”蚕学研究室“のみ,授業科目では農工大の私の担当する”蚕糸学“と信州大の塩見教授の”蚕糸・昆虫バイオテクノロジー“の2つのみである。私が教えている”蚕糸学“はそれこそ蚕糸業全般を網羅している。私は蚕種学(カイコの卵の研究と製造)が専門だが,蚕の繭から生糸ができて,生糸から反物(和服)ができる蚕糸業の全行程を教えている。幅が広すぎて大変であるが,1科目(15回)なのですべて概論である。農家が作ったものが製品として着物になることを学ぶわけなので,折角なので着物を着て講義している。着て講義してみると,確かにいろいろな事が分かる。兎に角不便である。講義前に着物に着替えるのだが,時間がかかる(10分くらいかな)。帯を結ぶのが下手なので講義中に緩んでくる(グチャグチャな結び目は羽織で隠している)。

パソコン等持って講義室に行くのにバックを肩にかけられない。3階から1階の講義室に行くのに階段が降り難い(登りはもっと大変なのでエレベーターを使ってしまう)。講義が終われば着替えるのだが,着物を仕舞うのに手間取る(畳むのが面倒なので居室に掛けっぱなし)。着ていれば汚れるが安易に洗濯できないので和服の洗濯ができる業者に出さねばならない(数年に一度)。講義室に行くだけでこれだけ大変なので,外出はよっぽど覚悟しないと着ていけない。

不便で大変だが,良い事も当然ある。冬の講義室は冷え切っているが,着物だと意外にも温かい。夏は麻の着物を着ると涼しい。一番ビックリしたのは,姿勢が良くなる。肘が付けない,足が組めない,背筋を伸ばした姿勢が一番楽になる。姿勢が良くなるのは一番良い事かもしれない。なで肩,下腹が少々出ている,いわゆる体形が良くない方が着物が似合うのも嬉しい。

メリットかデメリットか分からないが,目立つ。学内を歩いていると兎に角目立つ,同僚に「売れない落語家みたいだなぁ!」と声をかけてもらえる(確かに講義では話がスベッてばかりだ)。目立ちたい人は着物を着たらよいのにと思う。

普段全く服装に頓着しないが,着物を着る時にはどれを着ようか選ぶようになる。私は3着しか持っていないが,着る時に羽織との組み合わせ,帯との組み合わせを考えたりする。合わせていくのは楽しい。それが広がると新しい着物(羽織・帯も含めて)が欲しくなるのは金銭的にはデメリットか。